1月
01

やり直しのきかぬ人生であるが 見直すことができる 金子大栄

未来少年コナン

未来少年コナン

新年あけましておめでとうございます。
旧年中は何かとお世話になり、また多くのアクセスをくださり有り難うございました。

本年も何卒よろしくお導き下さい。

さて今月の言葉は年初に向けてちゃんと更新できました(あたりまえか)。
味わいはいつものように、
こちらでご覧いただくとしまして、

昨年の我が家は何と言っても長女次女が共に得度してくれたことが大きなニュースでした。
震災と原発という国を揺さぶる大事件の中、この御遠忌の年に得度してくれたことは大きな喜びでありました。

同時に下の子どもが「かなり」おしゃべりになってきました。
昨年はまだ主張する程度だったのですが、とうとう家族の年末作業を妨害するまでに(笑)

年末はあれほど禁止していたDVDを許可して、本人が集中して観ているそのスキに大掃除などを行っていました。

さてそのDVDですが「未来少年コナン」を観てもらいました。
かの有名な宮崎駿氏が初めて監督された作品ですが、
私が子どもの頃NHKで放映していたのを覚えています。
そのとききちんと見られなかったので、縁あって購入していたものです。
途中からつられて一緒に観ました。久々に(あかんがな)。

「未来少年」とありますが、
実際には未来的なものは殆ど出てこず、
主人公も野人の代表みたいな子どもで(それでいてどこまでも心優しいのですが)、
当時メカものが主流だったアニメーションの中で、異彩を放っていたのを覚えています。

原作も読みましたが、アニメのほうがかなり明るい希望の持てるストーリーです。

人類が愚かな戦争(核兵器を上回る超磁力兵器と設定にあります)で世界を滅ぼしてしまった後、生き残った人々が力を合わせて生きてゆく姿を描くストーリーです。
今見直すと「人間の償いと再生」の物語だとふと感じました。
まさに、やり直しはきかない、けれど見直すことができるということ。
機会があれば是非ご覧頂きたい作品です。

印象的なのが、太陽エネルギー(負の要素として描かれますが)をはじめ、地震・津波・原子力がキーワードとして出てくることです。

また、世界を滅ぼした科学技術に見切りをつけ、大地に根ざして自然と共に生きようとする人たちと、結局科学の夢を諦めきれず、それにしがみつき、暴力でもって統治しようとする人たちが登場します。主人公はその中で「何が正しいのか」を考えながら生きてゆきます。また暴力に生きていた人たちの中には、主人公の生き方に触発されて、自分の意思で暴力と訣別してゆく姿も見えます。

まさに現代の私たちに何かを問いかけてくれているような作品です。

作品中では人びとは「自ら」過ちを認め、世界のありかたを見直してゆきます。
だれかが見直してくれるのを待つのではなく、自分たちの目と耳を使って。しっかり大地に足をつけて。

震災からもうすぐ1年が経ちます。
私たちは見直せているでしょうか。

お寺で正月に行う行事を「修正会(しゅしょうえ)」といいます。
修正会とはまさに、年始にあたって自らの方向を見据え、修正する行事。

忘年会のように忘れてしまうのではなく、
今こそ年始にあたり、私たちの足元とその向きを見直しましょうか。

合掌。

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12月
30

あいさつ

神様の女房

神様の女房

この間、NHKの「神様の女房」を、遅ればせながらやっと観られました。

『経営の神様』と呼ばれた故・松下幸之助氏の半生を、妻むめのの視点から描いた作品で、さすがジェームズ三木。無駄のない関西弁がなかなか心地よかったです。

ときどき気持ち悪い関西弁の言い回しを聞くとそれだけでチャンネルをかえたくなりますからね。

もちろんゆっくり観てるわけにもいかない年末だったので、いろいろしながらの流し見状態でしたが、
その中で一つだけ印象に残った言葉が。

それは常盤貴子演じる、むめのが職員(といっても子ども)相手に研修を行ったときのこと。

『 一番大事なのは、何というてもあいさつです。
  あいさつは何のためにするかわかりますか? 』

『あいさつは、敵か味方を見分ける儀式だと思うてください。
 あいさつせなんだら、敵と見なされても仕方おまへん』

『大昔やったらその場で殺されてます。あいさつの本当の意味は、私は敵ではおまへん。あんたはんを襲いません、という合図や 』

たしかこんな具合のセリフだったかと(テキトーですw)。

しかしこの表現、これは強烈やったな〜。
あいさつは「敵味方を見分ける合図」か。
ふーむ、なるほど。

確かにあいさつできない人というのは、
言葉は悪いけれど、
何の理由もなしに周囲に敵意むき出しの人、
または、自分に自信がないのを、無理して虚勢張ってる人がほとんどかと思います。
つまりあいさつできないことで自分の弱点をさらけだしている…。

あいさつできない意識は「周囲を切り捨てる意識」だと思います。

そして「切り捨てる意識」の背景には、
「自ら切り捨てられることへ恐怖感」があるように思います。
華厳経にいうところの「五怖畏(サイト内参照)」ですね。

「現代人は自分の対面を保つためにいとも簡単に他人の能力を軽視」する。とは速見敏彦著「他人を見下す若者たち」の中にでてくる言葉ですが、この本の中に「仮想的有能感」というものが指摘されてあります。
事実はそうでないのに仮想的に自分が有能であるとし、 他人を見下すわけです。あーどこかそういうとこあるなぁ。とは思いませんか?

対面を保つと言うことは切り捨てられないための予防線なのでしょうか。
あいさつができない人が増えているのも、そういう『切り捨て意識』の一環なのかもしれません。

私も職場研修で「あいさつは何より大切や」と確かに教え込みます。
しかし「何で大切なんですか?」と聞かれたら
「そら、コミュニケーションの基本や」ぐらいしか言えませんでした。

あいさつは、敵か味方かを見分ける儀式。
これは決して敵味方を作れと言っておられるわけではありませんね。
どこまでも意識の中で人を見下し、
敵味方をつくりだしてゆく「私の意識」に対して、
頭をさげよ、と教えられているのだと思いました。
 

 

ぐだぐだ書きましたが…

みんなせめて、

あいさつちゃんとせなあかんね!

さしあたり、「あけましておめでとう!」
大きな声でいいましょうね。お互い。

録画しといたらよかったなぁ。

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12月
26

きこまいか

宗祖親鸞聖人

お念仏を頂く姿勢に根ざした言葉も多いんですよ。

滋賀県の湖北地方は
昔から京都と直通で湖上交易がなされていた関係で
京言葉?のようなコトバが伝わっています。

米原では使いませんが、長浜でよく使われるのが「きゃんす」という言葉。
使い方は「○○さん、今日きゃんす?」(○○さん、今日はこちらに来られますか?)とか「○○さんもうすぐきゃんす」(○○さんならもうすぐ来られますよ)といった具合です。

今の京言葉でいうと「来はる」とか「来やす」、「〜はんがおいでどす」という具合でしょうか。
あんまり言語学とか得意じゃないんですが、「来る」+「やす」がついたと思われます。

それが派生して、「○○さん、今日きゃんす?」と聞かれ、
来る場合は「きゃんす」もしくは「こんす(来る)」。
来ない場合は「きゃんせん」もしくは「こんせん」。

また、何かをしている様子を「○○さん、ご飯食べてやんす(している)」とかいいます。

京言葉とは違いますが、独特のはんなり感があります。
地元言葉としても好きです。

さらにこんな言葉もあります「○○しよまい」。または「○○しよまいか」。
これはたとえば「やろまい(やろまいか)」とか「いこまい(いこまいか)」とかいうかたちで使います。
やろう+まいか、行こう+まいかという形が原型ですね。たぶん。
一緒にやろうぜ、とか気楽にいこうぜ、とかいろんなニュアンスが含まれますが、 言い回しも含めてただ単純にやろう、とか、行こう、というよりも柔らかい暖かみがある言葉です。

さて、今日の本題はここから。
この○○しよまい、から始まった会が、このたび、発足しました。

弟、宮尾(長源寺住職)が発起人となり現在約20名の教区内若手で、
「もっと気楽に法話を聞こうじゃないか」という願いと意味を込めて、

その名も「きこまいか」=kicomaica と名付けました。

 

現在『準備中』ですのでまだ進捗はありませんが、
ともかくウェブサイト開設【kicomaica.com きこまいか・どっとこむ 】と、
TwitterのIDを取得しました(@kicomaica)。

よかったらページでも覗いてやって下さい。オススメします。
気楽なページですから、気楽な書き込みも大歓迎だそうです。

「気楽に法話を聞く」ということは、
講師の先生をお招きして、聞くもよし、寝るもよし、終わってから呑むもよし。
さらに、聞くだけじゃなくて、普段感じること、思うことを遠慮なくぶつけながら、
特定のメンバーが集まるだけじゃなくて、誰でも歓迎。いつでもどうぞ。
そういう願いです。

私もスタートメンバーの一部に入れてもらいました。こりゃ楽しみです。

講師先生は現在交渉中だということですが、おそらく近々決定することでしょう。

2012年春、kicomaica(きこまいか)、始動します。 

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12月
11

「仏説は仏弟子によって証しされる」安田理深

写真は関係ありません

写真は関係ありません

今月のことば、やっと更新です。ふぅ。

さて今月は「仏説は仏弟子によって証しされる」。
故 安田理深先生の言葉です。

このことばは尊敬する先生からおしえていただきました。
以下は先生がFacebookで仰ってましたコメントです。
大変感銘を受けましたので、ここに転載させていただきます。

「仏説は仏弟子によって証しされる」 by安田理深
自分の聞く力を不問に付したまま、相手の話の内容を下らんと切り捨ててしまうことがある。しかし、それは自分がその中から大切なことを聞き取ることができないだけなのかもしれない。

もし、釈尊の説法を直接聞く機会があったとしたら、私はどこまでその法話の中から大切なことを聞き取ることが出来ただろうか。
わからないこと、受け入れられないことを拒絶することで、自分の理解力・受容許容範囲の狭さに気付かずに、仏法を矮小な教えにしてしまっているかもしれない。
法話を聞く意義は、話し手の力量によって決まるのではなく、むしろ聞き手の力量に依存する部分が大きい。
曽我先生や安田先生の本はどれだけ読んでも、自分の守備範囲に居心地よくおさまってくることがない。そこに先生方との対話が成り立つ。
法華経の会座から立ち去った5000人の比丘が思い起こされるが、浄土真宗は、その場に留まって説法を聞くことができた者たちよりも、むしろ立ち去った“増上慢の比丘”とよばれた者たちに目を向けようとする教えであることが有り難い。

以上、転載です。
これに加えてコメントするのもおこがましいのですが、私自身の経験です。
安田先生に限らず、いろんな先生の本を教えていただき、読もうとするのですが、どうにもわからない。
わかったようでわからない。
本に限らず、法話や講義を拝聴していても受け入れられない、むずかしい、という経験、よくあります。

むかしはそういう場面で、「この先生の話は難しすぎる」と逃げていたのですが、それは私に先生の言葉をいただくだけの力量がなかっただけなのです。こと仏教に関してはそう明言したいと思います。

今、出遇っている言葉は数年後になって、ようやく私の「守備範囲」におさまってくれる言葉なのかもしれません。
まあ、私のようなききかたでは一生私の「守備範囲」におさまってくれないかもしれませんが。

仏法の受け取りについて、こんな凄い言葉を残してくださる方もあります。

「仏法というものは、聴いて覚えて、何か自分がええものになるのじゃない。そんなふうに思うておるかもしれんけれども、そうじゃない。仏法というたら、越えるということや。越えるということはどういうことかというと、あら、お粗末な自分じゃったと、そう気がついたときに、ほいと越えるのや。どれだけがんばっても、自分の力で越えられんぞ」

仏教は「教養」ではありません。
この年末にわたしの「きく姿勢」を問うてみたいものです。

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11月
15

裏をみせ 表をみせて 散るもみじ 良寛

紅葉ブットンくんとおじさん鸞恩くん

紅葉の季節です

今月の言葉、やっと更新しました。もう11月も半ばですね。ごめんなさい。

良寛さんといえば、厳しいお手紙が残っていますね。
「災難に逢、時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ」

1828(文政11)年11月12日、現在の三条市を中心にM7規模の地震が起き、当時で死者1400人あまり、倒壊家屋11,000戸の大惨事が起きたそうです。

当時良寛さん71歳。
この手紙は酒造家の山田杜皐(とこう)氏に宛てた手紙だそうです。
杜皐氏は友人でもあり、親戚でもあったとか。
末の子を地震で失い、深い失意の中であったといいます。

この手紙について古今、達観した境地であるとか、失礼極まりない手紙であるとか、いろいろ意見が分かれるようです。
しかしこの「裏をみせ 表をみせて 散るもみじ」を目にするにつれ、逆にこの手紙の言葉が身にしみてきませんか。
決して達観している手紙でもなく、
相手のことを思わない、無礼な手紙でもないと思うのです。

一緒に悲しんでおられるのでしょう。
目の前の苦しい出来事そのままに。

裏も表も私の人生なのですね。
しかし、どちらが裏でどちらが表やら。

良寛さんの最期は壮絶なものであったと言います。
のちに小説でおだやかな最期が描かれてあるといいます(すみませんまだちゃんと読んでません)が、
そんな最期とは縁遠い苦しみの中、亡くなって逝かれたといいます。

でも味わいにも書かせていただきましたが、
そのすがたで良寛さんの人生はいささかも傷つきません。

むしろ私たちに感動すら与えてくれます。
後世の歌人、吉野秀雄氏はその苦しく長い病床生活の中で
「われもまた 聖に口を合わせいふ 死ぬ時節には死ぬがよく候」と詠まれます。
良寛さんの悲しみに寄り添う姿勢は理屈ではないのだと思います。

宗祖も仰います。
「善信(親鸞聖人)が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり」と。
「臨終の善悪」って裏表をはっきりさせるという見識のことですよね。
私たちがすぐ持ちたがる、探したがる「答え」というやつです。

悲しむ人、苦しむ人にも私たちはすぐに「答え」を渡そうとします。
そうではなく、良寛さんのように寄り添うことが大切なのかも知れませんね。

さて、今月19日より28日まで、いよいよご本山、東本願寺で御正当の報恩講がつとまります。
不思議とこの一週間 で京都は色づくんですよね。

紅葉を見に行く、そんな動機でもいいじゃないですか。
京都でお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏。

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