問い:真宗では『般若心経』は唱えない?

『般若心経』は、短くて、一番ありがたいお経と聞きましたので、毎日お勤めしていますが、いけませんか。

答え

『般若心経』は、確かに仏のご説法であり、仏の覚りの極致を説かれたものでしょうが、本願念仏をいただく私達とは全く教えの方向が異なります。したがって真宗では『般若心経』は用いないのです。短くて、少時間で勤めやすいお経でしょうが、二つの点で問題があります。

一つはお経の内容の問題です。般若とはサンスクリット語を音写したもので、「仏の智慧」という意味です。仏の究極の智慧を説いたお経ですから、その内容は至極高邁、深遠であり、とても私達の手の届く世界ではありません。
例えば「色即是空」という有名な言葉が説かれています。この世の全ての物、お金も家も、私自身も、欲を離れ仏の智慧になり切れば、何一つこだわりがなくなる。自分のもの他人のものと争うこともなければ、可愛いい憎いと思い悩むこともなくなると説かれています。
欲もなくなり、自我を主張する思いもなくなれば、この世は平和な極楽浄土になるに違いありません。しかし、欲や我執の煩悩から離れられないのが凡夫といわれる現実の私達の姿です。親鸞聖人は、現実の私達の姿を「無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と言い切っておられます。現実を見忘れ、高い理想を夢見ても何ともなりません。

二つはお勤めをする気持ちの問題です。先祖の追善供養のためとか、現世利益の祈願のためとか、あるいは心身を清め安らかな気持ちになるためとかであれば間違いです。お経は、私達の思いを満足させる手段に使うものではありません。お勤めをするのは、仏の願いを聞き、先祖の願いを聞き、さらに自身の現実の姿に気づかせていただくところに意味があるのです。そこに、単に理想を夢見ることのない現実の中にあって、限りなく生きる意欲と、現に生き、生かされている素晴らしさが感得されてくるに違いありません。

その素晴らしさに感動された親鸞聖人は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と限りない寿と光のご恩を歌わずにおられなかったのでしょう。ですから、その親鸞聖人の作られた『正信偈』をお勤めするのが最善であります。/end

大阪教区教化センター発行「教化センター通信」より・2010年02月翫湖堂所収

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