2011年3月のことば
合掌の姿は尊く 念仏の声は美し
・・いよいよ宗祖親鸞聖人の750回御遠忌が京都・東本願寺にておつとまりになる。全国より御同朋・御同行が一同に会する50年に1度の聞法の会座である。ところが、そういう座において、「念仏の声が聞かれない」という。言われてみればそうかもしれない。御遠忌に先立つ「おまちうけ法要」の座においても念仏の声がちいさかったという。
・・阿弥陀如来は久遠のかなたより、我々に対して「わが名を呼べ」と願いつづけてくださっている。念仏は唯一その願いにこたえる姿である。人が合掌し仏を念ずるとき、その心もちがどうあろうと、周りの人はその礼拝の姿に敬虔な感情を受ける。受ける人に仏の利益を知らしめる行・私が満たされるだけではない行・そして誰もがどこでも実践できる行・でも「私が行ずる」のではない行。それが念仏である。
・・目先のことばかりを考え、利害損得にしか立てない、罪深き人間たち。かつてある老母が、「念仏が役に立つとは思えない」という息子に「たしかに念仏では食えんかもしれんが、念仏せんと食べたもんが無駄になるぞ」といったという。
・・合掌の姿と念仏の声は、そんな我々をして仏の願いにかなう姿を与えてくださる。合掌する私が尊いのではなく、その念仏を届けてくださる如来の本願が尊いのである。「一切衆生悉有仏性」。せわしき現代人の上に仏が現ずる一瞬。さあ手を合わせ、口に念仏を。




