今月の言葉を更新しました〜2025年5月(2025年5月5日)
こんにちは。住職です。
これは作家の故・高史明さんの本にあったお話です。
ある日、中学生が「死にたい」と訪ねてきました。皆さんなら、どう答えるでしょう。「そんなことを言うな」「親が悲しむぞ」とあれこれ諭すかもしれませんね。ところが高さんは、「死にたいと言っているのはどこか?」と問い返したのです。
子どもがとまどうと、高さんは自分の頭を指して言いました。「死にたいと言っているのはここか?」と。
子どもは「当たり前じゃないか」という顔をしています。
そこで高さんは続けました。「ここが死にたいと言って死んだらここから上だけが死ぬか?手や足もみな死ぬんだ。手の了解を求めたか。手はあなたにご飯を食べさせてくれたではないか。足の裏にも了解を求めたか。人間は頭でっかちだから、自分の顔は鏡にてらして一日何回も見るけれど、足の裏はまめができたとか、水虫でもできなかったらつくづく見ることもあるまい。死ぬという一大事だからせめていっぺんぐらい見たらどうか。足の裏はあなたに感謝されないまんま、ずーっとあなたの重さを一番下で支えて歩いてくれてきたではないか。」
「手や足はことばの知恵では返事をしない。しかしながら、足の裏に知恵がないか。足の裏には足の裏の知恵がある。しかも足の裏は大地に一番近いところにある。足の裏の返事が聞こえなかったら聞こえるまで歩きなさい。それが人生というものだ」と。
この話は、「人間は単純に頭だけで生きているのではない」ということを教えてくれます。
人間は頭で自分のことばかり考え、他者を責め、自己の利益を優先しがちです。でも、私たちのいのちは、無数のつながりに支えられています。一皿の食事でも、犠牲となったいのちや、多くの人の手があってこそ食べられます。それを忘れ、思考にとらわれる今の世界はいかがなものでしょう。はやりの「自国第一主義」も無明と愚かさの代表格です。
夜、耳を塞ぐと血流の音が聞こえます。目を閉じれば、瞼に模様が映ります。眠って意識を失っても、朝には目覚め、生が続く。これは当たり前のことなのでしょうか?
今こそ、私たちを支える「深くて広い世界」に目を向けたいものです。
※大阪の『南御堂』掲示板で住職が書いたものの原文をここに掲載します。(なお、同様の文章が大阪拘置所・「みやこじま」誌にも掲載されました)
修正会・元旦(しゅしょうえ)…1月1日除夜の鐘終了後
修正会2日目(しゅしょうえ)…1月2日 午前8時より
春季永代経 … 3月16日(日)
他所経常費集金 … 7月13日(日)
境内葉刈作業 … 7月27日 (日)
秋季永代経 … 10月5日(日)
報恩講 … 12月5日(金)〜12月7日(日)
5日夜 → 子ども報恩講
6日夕 → 御傳鈔拝読(法話後)
7日午後 → 門徒総会
除夜の鐘…12月31日 (水)午後11時より(引続き修正会)
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住職: 竹中 慈祥(たけなか じしょう)