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お育て

難波別院本堂
難波別院本堂

正月の難波別院本堂

私の列座時代の話です(今も厳密には列座なんですが)。

別院に入って一定の年月が経つと、
ご門徒さんのご自宅にお参りに行かせてもらえるようになります。
これを「参勤」といいます。

(呼び方は地方やお寺にによって違います。たとえば真廣寺では「常斎(じょうとき)」といいます。檀家参りという言い方をするところもありますね。)

参勤に行って、ご門徒さんとお話をするのは楽しいものです。
特に朝から晩まで毎日、掃除とお給仕の生活をしている若いモンにとっては、
大いにストレス発散になります。

ところが、そうとも言えないお家もありました。
それは「毎月法話をしてほしい」という家です。

はっきり申しまして…
当時、物凄く「嫌」でした(当時ですよ)。
若いモンがそんなに毎月、仏教の深い話なんかできっこないのです。
それ以前に、「仏教について深く考える」ということが皆無だったのですから。

「大谷大学で学んだじゃないか」と言われそうですが、単に卒業単位が欲しかっただけです。
レポートも、卒業論文も、自分を飾るための「手段」でした。
パキパキの金メッキで飾り立てた我が身だったのです。
いわば「問題や課題の無い我が身」だったわけです。

「毎月」、お話をしなければいけないという緊張感。それこそ指折り数え、あと何日…と、戦々恐々カウントダウンをするのです。

不思議なことに、そのうち人前で話すことへの緊張や恐怖は消えてゆきます。
…人間は慣れるのですね。

そして主たる問題は自分の話す内容となり、毎日仏法の事ばかりを考えるようになります(≒憶念?)
また、事あるごとに他人の話を真剣に我が身の問題としてきくようになりました。「聴聞」する悦びを覚えたのです。
その中で仏法のお話に感動することもありました(≒法の深信?)
そして自らの実生活のギャップに慄然とし、なおも言葉と出遇うことが嬉しく思われました(≒機の深信?)
そうして私は仏教にどっぷり漬けていただきました(≒薫習?)

考えれば、素晴らしい「お育て」でした。
のほほんと過ごしてきた私に「課題」を与えてくれたのです。
方向性が定まったとき、人間に対して仏教は素晴らしい力を持ちます。

だから今、物凄く感謝しております。
ご門徒のお家におまいりして、いっぱしの仏教徒面をし、ひとを導いたかのごとき感覚を持っておりましたが、導かれていたのは私だったのです。
そのことに気付かせてくださったのは、ほかならぬご門徒でありましたが、
かといって、ご門徒さんがそこまで意図されていたかはわかりません。

これが仏法だと思います。

PDCAサイクルってありますよね。ビジネス用語ですが。
自分の行動を計画し(Plan)、実行し(Do)、省 みる(Check)、そして改善する(Act)。

ビジネス用語は仏法と違うといわれそうですが、人間が行動するにあたって指針となるものは、概して宗教的なそれと近いわけです。目新しい言葉のようですが、内実は数千年変わっていません。その言葉が本質的なものであればあるほど、洋の東西すら越えるとおもっております。

さてそのPDCAですが、一人の人間がずっと考え、実行し、省みて、自らの行動(生活)と比較する点は仏法の歩みも通ずるものがあるでしょう。
そういう体験と実践とが繰り返されると、仏法が肌からしみこんでくると思うのです。
(とはいえ、それが何処まで徹底できるか…というところに人間の弱さ、そのままそれは修行中心の仏教がもつ人間救済の限界…さらには親鸞聖人のいただかれたお念仏の救いがあるのですが。

蓮如上人は「仏法を聴いても聞いても、かごに入れた水ののように私から漏れてゆく」、と嘆くご門徒に「そのかごを水につけてごらん」とおっしゃいました。すごいたとえだと思います。

お陰で、今、私はあれほど家業として嫌がっていた仏教のことが好きになれました。
あの体験を通して仏法を知り、さらには念仏の素晴らしさに気づかされました。

全て「お育て」なのです。
そして私のみならず、誰もが日々、このお育てをいただいているのです。

これが仏法のもつすごさだと思うのです。目に見えにくいから大切なのです。
逆に目に見えるような救済、分かりやすい救いは、結局のところ現代人という「わがまま者」のご機嫌取りに過ぎないように思います。

先日テレビである先生が「仏教の社会的役割」ということで仏教に望む実践道のようなことをおっしゃってましたが、
それこそ役所やお店や企業のサービスと、仏教がもつ本来性を勘違いした姿だと思います。
偉い先生だと思うんですがね。残念です。

仏教はすでに人類の上に実践されているのです。
それに気付かないのが「お育て」をいただきながらそれに気付かない私達ではありませんかね。
そもそも方向性がずれているのです。
社会的に分かりやすい運動をしているから仏教なのでもなく、
社会的に分かりやすい運動をしていないから仏教ではないというのでもありません。
運動は日々、実践されているのです。すでに。

「お育て」を受け取る側に問題があると思うのですが。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」
「親鸞一人」とは「わたしたち一人ひとり」です。そういう方向に気づきたいものです。


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