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「仏説は仏弟子によって証しされる」安田理深

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今月のことば、やっと更新です。ふぅ。

さて今月は「仏説は仏弟子によって証しされる」。
故 安田理深先生の言葉です。

このことばは尊敬する先生からおしえていただきました。
以下は先生がFacebookで仰ってましたコメントです。
大変感銘を受けましたので、ここに転載させていただきます。

 

「仏説は仏弟子によって証しされる」 by安田理深
自分の聞く力を不問に付したまま、相手の話の内容を下らんと切り捨ててしまうことがある。しかし、それは自分がその中から大切なことを聞き取ることができないだけなのかもしれない。

もし、釈尊の説法を直接聞く機会があったとしたら、私はどこまでその法話の中から大切なことを聞き取ることが出来ただろうか。
わからないこと、受け入れられないことを拒絶することで、自分の理解力・受容許容範囲の狭さに気付かずに、仏法を矮小な教えにしてしまっているかもしれない。
法話を聞く意義は、話し手の力量によって決まるのではなく、むしろ聞き手の力量に依存する部分が大きい。
曽我先生や安田先生の本はどれだけ読んでも、自分の守備範囲に居心地よくおさまってくることがない。そこに先生方との対話が成り立つ。
法華経の会座から立ち去った5000人の比丘が思い起こされるが、浄土真宗は、その場に留まって説法を聞くことができた者たちよりも、むしろ立ち去った“増上慢の比丘”とよばれた者たちに目を向けようとする教えであることが有り難い。

以上、転載です。
これに加えてコメントするのもおこがましいのですが、私自身の経験です。
安田先生に限らず、いろんな先生の本を教えていただき、読もうとするのですが、どうにもわからない。
わかったようでわからない。
本に限らず、法話や講義を拝聴していても受け入れられない、むずかしい、という経験、よくあります。

むかしはそういう場面で、「この先生の話は難しすぎる」と逃げていたのですが、それは私に先生の言葉をいただくだけの力量がなかっただけなのです。こと仏教に関してはそう明言したいと思います。

今、出遇っている言葉は数年後になって、ようやく私の「守備範囲」におさまってくれる言葉なのかもしれません。
まあ、私のようなききかたでは一生私の「守備範囲」におさまってくれないかもしれませんが。

仏法の受け取りについて、こんな凄い言葉を残してくださる方もあります。

「仏法というものは、聴いて覚えて、何か自分がええものになるのじゃない。そんなふうに思うておるかもしれんけれども、そうじゃない。仏法というたら、越えるということや。越えるということはどういうことかというと、あら、お粗末な自分じゃったと、そう気がついたときに、ほいと越えるのや。どれだけがんばっても、自分の力で越えられんぞ」

仏教は「教養」ではありません。
この年末にわたしの「きく姿勢」を問うてみたいものです。

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