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出発は足下からなのに、ひとはすぐ頭で歩こうとする 平野修

ちいさいいのち
ちいさいいのち

いのちに対して向かい合えていない。誰もが宗の教えを持っていない。

今月はなんと!1日に更新しましたよ!
えーと、本来なら、あたりまえですね。すみません。

眞廣寺掲示板、更新しました(`・ω・´)ゞビシッ!! 
あじわいに書きましたが高史明先生の中学生とのやりとりは衝撃的でした(リンク先でお読み下さい)。まさに、私たちは「頭でっかち」なのですね。 

 

さて、1年の後半が始まったこの日、大飯原発の再稼働で日本は揺れています。というより、残念ながら揺れたのは日本国民だけでした。
国家は揺れていません。というより揺れていないふりをしてます。
彼らは軸足が「安全」とか「再稼働」から動かせませんからね。
自分の足の裏が見えないかわいそうな人たちです。

 

とはいえ、個人的には原発再稼働については疑問をもちつつも、仕方ないとも思っています。なぜなら、代替エネルギーへの議論がまったくもって進展していないからです。

 

停電が起こって困るレベルは人それぞれでしょう。
ウチみたいに「あーこまったなー」という程度の人がほとんどではないですか?
でも中には人命に関わる緊急性を抱えるところもあります。
従って余裕のあるエネルギー対策はもはや不可欠のものなのです。
再稼働はそれを担保するものでしょう。

 

ただ再稼働に疑問を感じることもあります。
それは、そのことについて議論をさせない、
議論から目を逸らしてただひたすら「安全」の文言だけを振りまくことに、
違和感を感じるのです。
怒りを感じておられる国民の方々には強く同意したいと思います。
その点では一致できそうです。

 

Facebookでも発言しましたが、
「シゴトをしないオトナ」が多すぎるのですね、この国には。
そこに怒りと悲しみを覚えます。 

 

政府も官僚も怠慢の極みです。
前例とマニュアルとどこかの知らない人の合意のみで動こうとしています。
誰も根本的な議論を真剣にやろうなんて思っていないんでしょう。
ウソの方が楽だから。

今までの「ウソ」はぬぐえました。表面上だけでも。
なぜなら国民に真実を伝えずとも「疑わしき」で済んだからです。
でもこれからの「ウソ」はあきらかにぬぐえません。皆が注視しているのですから。
グレーゾーンがグレーゾーンのまま、露わになりつつあるのです。ごまかしてはいられないでしょう。

 

それでも彼らはウソでごまかせるとまだ思っています。
今までうまくいっていたからでしょうね。思考が硬直しているのです。

 

ただ、これは私たちの生き方にも関係がある重大な問題です。
なぜなら世界的に日本経済が不調なのもそこに遠因があるからです。
慣習や慣例のみにあぐらをかき、根本的に問うことをやめてきたではありませんか。
硬直してきたのは国民全体かもしれません。
だから新しいものが生まれないのでしょう。
大経に「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず」という言葉があります。お浄土では菩薩の行によって、いかり・はらだち・そねみを起こさないのだというのです。
…つまり逆をみればいかり・はらだち・そねむ私たちの日常が見えます。

蓮如上人の御文にあるさまざまな誡めの言葉は「そういう人がいた」という時代の熱を感じさせます。
でも蓮如さんにそんなことしちゃダメだとおこられるということは、
ポリシーを持って全力で間違えた、そんな逸脱した人がいたということじゃないでしょうか。

お経の言葉は否定ではなくて、発想の転換を教えてくれているように思います。

今、宗教なき時代。人の多様性が画一化されているように思います。
そのままでいい、そんな言葉が感じられないとでもいいましょうか。

「にんげんが、いづらい」のです。
仮面を被って、自分を演じて、無難に生きる人だらけなのです。
無難に生きるには自分を殺さないと生きられません。
誰もがアクターでありアクトレスであるのです。
それが楽ならそれでいいでしょうが、そこには「ウソ」が生まれます。
自分の信念やポリシーをもねじ曲げて正当化できるウソです。

これ、相当しんどいと思います。
でもみんな社会通念的に生きるとはそういうことだと思ってはいませんか?
そうしてみんな無理矢理自分の日常を演じてゆく。自分を殺しながら。

現代において、逸脱した行為をする人の殆どが、
「自分を殺しきれなかった、ウソをつききれなかった」人ではないでしょうか。
昔のように信念のままに逸脱するのではなく、
追い詰められて、壊れてから逸脱するから救われない。
なんとも生きにくい世の中です。

 

私たちは自分自身の姿に目を閉じていますが、
はっきりいって、自分に正直に生きたためしがありません。
だから自分探しなんてどこにもありもしない自分を探してみる。

どこかでウソをついたり、ごまかしたり、場合によっては丸め込んだりして生きています。
どこか自分のキレイさは保っておきたいんです。
俺のことはそっとしておいてくれ。そんな気持ちでいるのです。
それは生活の上のささやかなウソです。

…でもそのウソを正当化できる人が、社会に出て、社会を動かしているのです。

それが、つまり、私たちです。

そして、責めやすい他人を責めている。
時には大義名分をかざして。
私を含むウソつきどもがいっぱいあつまって作り出したのが今の日本国です。
私たちひとりひとりウソつきの仲間なのです。

大事なことはここからです

そうだった、と気づくことが必要です。
でなければ議論はいつまでも行われないでしょう。
これが「真宗再興の精神=歎異」だと思います。
悪い人はいるかもしれないけれど、
その他人を責められない私「も」見つめなければいけません。

 

デモは否定しません。意見を述べているのですから。
しかしそれが「正義のため」とならないことを願います。

 

正義のための戦いだ、と、行動を正当化した時点で、
その人たちは「正義」という新たなウソを塗ってゆくことになるのです。
そしてウソをついている人たちと同じように軸足が動かせなくなってゆきます。

そうやってオウムを作り出してきたのではないでしょうか。
オウムも政権も官僚も検察もみな同じです。

愚かな人間どもが集まって人間の頭で解決できる、
あさましい人間が修行して、いつかは解決できると思っている時点で 、
どちらも救いようのないオオバカモノなのです。

親鸞はそこを見つめてきたと思います。
人間はそもそもが不完全なのです。
自分の足の裏の汚さをみつめましょう。そこから一歩が始まると思います。
足をどけてその踏みつけているものを見つめましょう。そこから初めて歩けると思います。

 

だれもが頭でっかちな現代。足の裏から大地を感じられない現代に。

合掌。

 


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