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説明は説迷である〜高光大船〜

2014年2月の言葉
2014年2月の言葉

2014年2月の言葉

掲示板更新して、
寺報を仕上げるまでがやっとで、
ブログ更新が遅くなりました。

味わいにも書きましたが、
私たちは互いの意見の相違を見たとき何をするでしょう。…自分の正当性を相手に知らしめるために、必死に相手に対して説得を試みるんですね。

でもどうでしょう。
必死に説得したって、
相手も必死に自分を説得しようとしてるんですよ。
お互い様です。だからこれってときどき終わらないんです。
終わる時ってどっちかが諦めてる時じゃないですかね。よほどのことがない限り。

テレビでの討論会なんか見ていると、
本当にそう思います。
(まあ日本人は私もそうですが特段に議論がヘタですからね。あれはしょうもないプライドの戦いに過ぎません)

人間って何を大切に生きてると思う?
…年末ある先生に尋ねられました。

お金?健康?それとも家族?…ありがちな「問い」です。
法話の現場でしょっちゅう使う論法です。
この論法のいきつくところは「仏法でしょう」…となる予定なんですね。

その先生は仰いました。
「仏法でもなんでもない、人間の知性を最優先に生きてきたんじゃないかね」と。

はっとしました。
そうなんです。
知性を頼りに生きているんです。
だから、知性が行き詰まると、自分も見棄ててしまう。
身体は、いのちは、自分の存在は、どこも行き詰まっていないのに。

仏法をききたいと願いつつ、
それが自分の理解の範疇に収まることを期待している。
自分を超えて問うてくる仏法の素晴らしさに目を閉ざして。
自分のききたい範囲で、理解できる範囲で仏法を選びながらきいていた。
そうだった。

こうして現代人は説明に執着し、説明に溺れ、
そして説明を求めて「説迷」してゆくのですね。

なお、
迷は米(めい)、惑は或(わく)という部分(旁)で読み仮名を決めています。
意味はどこにあるかというと、その偏にあるようです。
つまり
迷は行うことにまよい、
惑は信ずることにまよう。

親鸞聖人も仰います「行に迷い、信に惑い」と。
…迷惑な私たちです。

理解できることだけが仏教ではありません。
理解できると言うことは人間の知性の範囲にすぎません。
つまりそういう枠組みの中だけで仏教を聞いているのでしょう。
それでは本願には遇えないのかも。
すでに届いている本願に。こちらに問題があって。

あーこうやって書いているのも、説明なんですよねぇ。

南無阿弥陀仏

 


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