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念仏しても食えんかもしれんが、念仏せんと食べたもんが無駄になるぞ

2015年3月のことば

2015年2月のことば今月の掲示板、更新しました。
厳しい言葉ですね「念仏しても食えんかもしれんが、念仏せんと食べたモンが無駄になる」とは。ねぇ(笑)。

この言葉、どこで読んだか忘れたので恐縮ですが、ある老母が息子さんに仰った言葉だそうです。

息子さんは「念仏せい念仏せい」と言い続けるお母さんが嫌になったのでしょうか、お母さんに対して「アンタが念仏を大事やというのはようわかった。でもワシには生活がある。家族を養わんならん。アンタの言う念仏をしたら飯が食えるというのか。食えんじゃないか」というようなニュアンスのことばを投げかけたそうです。

お母さんはその言葉に悩みました。一晩悩んだそうです。

そこで絞り出すように出された言葉がこの言葉です。

息子さんのいうとおり、念仏は飯を食うのに何の役にもたちません。ホントそうです。

むしろ念仏って役に立たないものの代表格ですよね!…時代劇の決めぜりふ「念仏でも唱えな」…って、どれだけあがいても無駄だから観念しろよって意味ですからね。

ただここで逆に素晴らしいのは「役に立たない」ということだと思うのです。

私たちの社会で「役に立つ」というものを見渡してみて下さい。

全部人間の手垢にまみれてませんか。衣食住、お金は勿論のこと、健康も、情報も、コミュニケーションも、何だって役に立つものは人間が手垢にまみれさせてきたんです。欲望が入り込んでいないものは見当たりませんよね。

念仏はその点、”比較的”手垢にまみれていないんです。「役に立たない」から。皆無視してきたんですよ。

坊さんは念仏で儲けとるやないか、と言われそうなのでそれはちょっと言うておきます。

坊さんだって念仏で儲けてるんじゃありません。誤解を怖れずに申せば、つまりは「先祖供養」です。

先祖供養のお取り次ぎで養っていただいてるんです。儀式も法話もみんなそうです。

もちろん、仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ・仏さまのご恩を感じそのことに手を合わせること)という眼差しをもちたいと願い続けているんですけどね。見た目にはやはり先祖供養です。私はそれでいいと思っています。

(他にも真宗では致しませんが、家内安全とか五穀豊穣とか、商売繁盛、交通安全…そんなお寺もありますね。これは…どうでしょう。個人的には人間の欲望の延長線上にしか見えないんですが)

ただ「それだけじゃない」という教えが浄土真宗にはあるのです。それが「念仏」です。真宗の法話は先祖供養をご縁として、仏恩報謝である念仏を説きます。人間にとって一般的な入り口がそこしかないからです。

なお前述で”比較的”と申したのは、その念仏すら時々自分の手柄にしてしまうのが人間だからです。「オレは毎日手をあわせている」「毎日拝んでいるからすごいだろう」ってね。

金子大榮師は『お浄土とはどういうところにあるか、というと、現生というものを「置いてみる」場所』と仰いました。私なりに取意させていただければ「宗教とは個人の都合にまみれた人生を”置いて”見るもの」ということでしょう。

今過ごしておられるその人生、本当に正しい方向を向いているのかどうか、すこし横に置いて見る眼差しは持てていますか。そこに念仏があるのです。

このおばあさんの言葉には、厳しくもまっすぐな念仏の教えが息づいています。

そう感じます。

 


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