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御正忌報恩講に思う

平成のご修復前の、御影堂(今や貴重でしょ)。

去る11月21日より、京都・東本願寺にて御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)が始まっています。
旧来、この期間中に100里(約393km)圏内では報恩講をすることが禁じられてきました(遠慮されたとも聞きます)。

なぜか

それは、僧侶門徒を問わず、この御正忌報恩講の時期には、それほど本山へお参りすることがとても大切なこととされるからです。

ところが、「なんで行かなあかんねん。」実はそういう声を聞いたことがあります。「忙しいんや」とも。

…お気持ちはわかります。
私もかつてそうでした。いや、私の場合はこうも思っていました「いつでも行けるわい」と。

だからそういう方に申し上げます「無理せんでええやん」と。

御俗姓(ごぞくしょう)に「ただ、人目・仁義ばかりに、名聞のこころをもって報謝と号せば、いかなる志をいたすというとも…」とあります。
「住職(家族・友だち)が言いよんねん」という方も、「義理で行くんや」という方も、無理せんでよろしいかと。
別に突き放しているわけではないのです。私がそうだったから申し上げるのです。

ただ、念仏を戴いているうちに行ってみたくなります。それだけです。

さて、報恩講とは、「宗祖のご恩に報じる」と言いますが、かつてこのブログ(旧版)で書きましたように、先人・先祖・親の恩に報いるといっても、一体何を報いることができるのでしょう。それこそが私自身の限界をも知らぬ驕慢(おごりたかぶり)の極みかと思います。
私たちは「ただいただき詰めの恩を報(しら)されるばかり」なのではないでしょうか。
受けた恩はお返しきれない。それが私たちなのです。

現在、素屋根がかかっている阿弥陀堂

一度行かれた方は判ると思いますが、京都の駅前に、あんなデカイ木造建築があって(誰かが何とかして建てたのです)、たくさんの方が手を合わされる光景は(誰も彼も都合をつけて集まってこられたのです)、日ごろの「私」という存在を薄れさせてくれます。
日ごろ向かい合うことでしか同席できない人間たちが、同じ方向に向かって手を合わしている姿には感動すら覚えます。
…どんなに綺麗なことを言っても、向かい合えば潰しあう、罵りあう人間がおとなしく同席しているのです。僧俗共にひしめきあって。そしてこれは750年もの前から続いてきたのです。大なりと小なりと。

御俗姓には「この御正忌をもって、報謝の志をはこばざらん行者においては、誠にもって、木石(ぼくせき)にひとしからんものなり」とも書かれます。私はかつての自分をそこになぞらえます。「何にも考えておらんかったなぁ」と。まさに木石でした。
かといって今行きたくないひとを木石とはいいませんが。

ただ、この感慨はあとで省みないとわからないのです。その姿に機があり、法があると思います。人生でも何でもそうですが、時にはそっぽを向き続けることこそ大切だと考えます。

さあ、期間中、私も毎日は無理ですから、今年は24日の午後にお参りしたいと考えております。
毎年の例時として。そのうち、ご一緒いたしませんか?合掌


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