第1回 真宗の救いとは

2008年04月号翫湖堂 所収

※このページについて:このページは前半が法話・後半が考察という構成になっています。
 前半は真宗大谷派大阪教区発行の教化センター通信からの法話、後半が副住職のひとりごとと言う構成です。 

◎ 法 話 ◎

◎浄土真宗は難しい?

浄土真宗の教えは難しいといわれますが、実は実感としてはいたって単純なものです。「人間として生きていることは実に素晴らしい」と気づくこと以外にないと思います。
自分の思い通りになった時は「人間に生まれてきてよかった」と思い、思い通りにならないと「なぜ私だけがこんな苦労をしなくてはならないのか」とつい愚痴が出ます。
どのような生活であろうと「生きていることは素晴らしい」と静かに言うことができる、そんな私になることが真宗の教えを頷かれた人の実感です。
では「生きていることは実に素晴らしい」と実感することは、どういう内容なのか。言い換えれば、真宗の救いとは言葉で表せばどういうことかということです。

◎目覚め

まず第1には、めざめ(自覚)です。すでにすべての人に平等に与えられてある生命の尊さ、素晴らしさにめざめることです。それはいかなる条件もなしに尊い生命にめざめることです。財産・名誉・家柄・能力・性別などの人間に附帯(ふたい)した条件に振り回されて、優越感と劣等感のはざまに苦悩してむなしく過ぎている私たちが、それらの条件を超えて無上に尊い平等な生命の大地に目覚めるのです。

◎解 放

第2には解放です。何ものにも左右されることのない、尊厳なる生命に目覚める時、人間は解放(解脱)され、真の自由を得るのです。附帯条件がなくなるのでもありません。財産や名誉よりも大切な生命にめざめることによって、附帯条件や欲が邪魔にならなくなるわけです。
たとえば、お金は大切なものですし、誰でも欲しくて真剣に求めます。「出すのは舌を出すのもいやだ」と言う人すらいます。しかし、病気になって死ぬか生きるかという時には、大金もおしまずにつぎ込みます。生命はお金に返られないからでしょう。

◎往 生

第3には往生です。尊い生命に目覚め、欲望に邪魔されることがなくなると、日々の生き方を本当に大切にするようになります。親鸞聖人は「人間とはひととうまるるをいう」と領解(りょうげ)されています。一日一日と新しく、常に新しく誕生しつつある私が見えてくる。
往生とは「往(い)き生(う)まれる」ことであって、日々生まれつつある私として、躍動する生命の現れであったと感得されてくる。そこにこそ「生きていることは素晴らしい」と心から言える私が誕生するに違いありません。 (第1回終わり)
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◎ 副住職の考察 ◎
…つまりは副住職のひとりごと

◎なぜ宗教はあるのか

さて、第1回考察ということですが、最初にぜひ一つ確認しておきたいことがあります。それは「なぜ宗教があるのでしょう?」ということです。
私は「無宗教」だという人があります。なぜ神仏といった目に見えないものを信じられるのか、そのことが信じられないと。また「宗教はアヘンだ」という人もあります。なぜそんなものに命をかけることができるんだ=そんなものに命をかけるなんて麻薬と一緒だ。という考えでしょうか。これは昨今、過激な解釈をされる宗教が目立ちますから(原理主義とも言いますね)よりいっそうそのように感じられるのでしょうかね。私もそれは否定できません。そういう現実があるのですから。
しかし、逆に「宗教なしに生きてゆけない」「宗教のおかげで私は助かった」という人もいます。何が違うんでしょう?

◎五つの恐怖

宗教は人間だけが持っているといいます。それは「人間がいずれ死ぬ身であるということを知ってしまったから」だともいいます。動物に宗教はありません。死ぬことに対する恐れの感情はあるでしょうがね。そういった生き物そのものの持つ恐怖に加えて、人間が持つさまざまな恐怖を仏教では「怖畏(ふい)」といいます。それは5つに分類され、「五怖畏(ごふい)」といいます。
1には不活畏。食っていけなくなるのではないか。
2には堕悪道畏。ゆく先、悪い道に陥るのではないか。
3には悪名畏。周囲から悪く見られ、世間に悪評が立つのではないか。
4には命終畏(死畏)。死ぬのではないか。
5には大衆威徳畏。大勢の人に威圧されるのではないか。
いずれも心あたりがありませんか。昨今の不況を思いますと、たしかに1とか2は本当に切実な悩みではないでしょうか。私も今は勤め人ですが、やがて田舎の寺に帰るのだろうな~と思いますと、1からは本当に逃れられません(ご門徒さんすみません)。他にも人前で話すことが多いのですが、3と5はいつも恐れおののいています。
でも最もおそろしいのは4です。この恐れから実は逃れることができません。生まれてきた以上。お釈迦様は「死なない方法を私は知っている。それは生まれないことである」と仰いました。「なんじゃそら」と思いますよね。当たり前やないかと。そうです。逆を返せば、だからこそ「いつか死ぬ」ということは当たり前の事実なのです。

◎宗教の存在の目的

しかしそこから目をそらして私達は生きています。CMに代表されるように、「いつまでも元気で、家族仲良く、豊かな暮らし」を「夢想」しています。なぜ夢想かというと、そんな事実は存在しないからです。その証拠にあなたも私もいつでも五怖畏が背中合わせでしょう?。
宗教の本当の目的は、「幸せに生きる」ということです。「生きることに幸せ」じゃありません。そういう幸せとは、この世を生きるうえでの便利なことが満たされることで、それは「個人的欲望の充足」にほかなりません。皮肉なことにそういう人がいわゆる「宗教」の名を騙るビジネスにだまされ、大金をまきあげられたり、犯罪に手を染めてしまうんですよね。これは「幸せ」と「宗教」の見あやまりだと思います。
真の幸せとはなんでしょうか。本多先生が仰るのは「生きていることは素晴らしい」と「静かに言うことができる」。ということです。大きい声ではだめなんです。「私は入信して幸せになった」というひとほど、怪しいものはありませんから。まして「これを買ったら幸せ」なんてもはや何のことだか(真宗ではお守りすら売りません)。

◎さいごに

真の幸せは内面的なものです。だから往生というのです。生きて往くともいいます。歩みなのです。この瞬間から幸せ!というわかりやすいものでも逆にいけません。
今生きている中に、いろんなこともあるけれど、それが受け止められるようになる。それが真の幸せなのです。
アニメに「魔女の宅急便」というのがありますが、そこに「落ち込んだりもしたけれど、わたしは元気です。」とあります。この感情が昇華すれば、そこに宗教の感動に似たものがあるようにも思います。
実は世の中でいつも「感動」とかいわれるもの、よく観ますとどれも「宗教的感動」なんですよね。人はそういう感動を求めながら、宗教から目を逸らします。ここには「宗教が手垢にまみれてしまった・そうさせてしまった」宗教人の姿があります。私もそのはしくれとしての反省が必要かもしれません。
(考察おわり)
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