第3回 真宗の救いとは ~解放~
※このページについて:このページは前半が法話・後半が考察という構成になっています。
前半は真宗大谷派大阪教区発行の教化センター通信からの法話、後半が副住職のひとりごとと言う構成です。

◎ 法 話 ◎

真宗の救いとは、解放(解脱)であります。生命の尊さに目覚めることになり、繋がれていた心から解放されるのです。人間を呪縛するものは、外にあるのでない。心の中にあるのです。
1つは、利害損得の心です。金銭に縛られるといいますが、100万円の札束を前に動揺したり、時には刃傷沙汰に及ぶことすらあるのは、これは金銭に対して欲のある人間に限られることです。ヨチヨチ歩きの幼児には、100万円よりもあめ玉の方に手が出ます。猫や犬は見向きもしません。
2つには、名誉心であります。知性と教養が邪魔をすると言われるように、知性、教養があると自負している人ほど、縛られ、苦悩する度合いも高いものです。
ある寺の責任役員で、町の顔役でもある方が、同朋会の座談会で言われました。
「今回は恥をしのんで、思い切っておたずねします。私は現在75歳で、何も不満はありません。町会議員も何期かやらせてもらい、今は最後のお役として寺の責任役員をやらせてもらっています。息子も真面目に仕事をしておるし、孫3人に囲まれて、妻ともども健康で一応仲睦まじく生活しています。
ところが一つだけ、考え出すと夜も眠れないほどの不安があります。それは、死ぬ時のことです。いつ死んでもよいが、最後苦しんで死ぬのもかなわん。もっといやなのは、ボケてとんでもないことを言ったり、したりして、皆から哀れまれたり憎まれたりするのは、死ぬよりつらい。できることなら1週間ぐらい静かに寝床に着いて、見舞いに来てくれた人達に『お世話になりました。有難う』と言って、最後に『ナムアミダブツ』言って死にたい。』
30人ほどの聞いていた人達も、同感して聞き入っていました。同席をしていた私も身につまされる思いで、思わずため息がでました。どんなに恵まれた境遇であっても、内心には自分の見栄や虚栄に繋がれ、心底の満足と安心はないものです。
それから、数年、同朋会は続けられ、おそらく皆の念頭にはこのことが問題となり続けたことでしょう。発言した人は、嬉々として寺の役をやり、聞法にいそしんでこられたが、最近ふと一言。
「今、生命(いのち)があることが実にスバラシイですね。どんな死に様をするか、私には予想できません。生命ある限り大切に生きることにしました」と。82歳。氏の輝く笑顔が忘れられません。

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◎ 考 察 ◎

さて今回は「解放(解脱・げだつ)」とまた凄いタイトルですね。

■解脱とは?

もう15年以上も前(執筆時2010年)の話になりますが、副住職の職場の近所に、かの有名なオウム真理教(現在:アーレフ)という新興宗教の事務所(道場?)がありました。そこでは簡単に言えば、肉体と精神の修養を極めて、「解脱」を目指すということがなされていたそうです。
ところが皆さんご存知のように、個の解脱どころか「解脱」の名のもとに、組織~教祖個人の都合のために他人を殺める行為を繰り返し、それどころかその行為を「解脱の手助け」のように正当化していました。これはどう考えても「解脱」という言葉をおもちゃにしたとしか思えませんね。

それではまことの解脱とは何なのかといいますと、言葉は乱暴かもしれませんが『私の心の中にある「こだわり」からの解放』だと思います。

しかしそのこだわりは、頭で必死に考えても見えません。なぜならそれがそもそも「こだわり」だからです。この「人間の持つこだわりの総称」を真宗では「自力(じりき)」といいます。前回の「他力」に対応するような言葉ですね。

■こだわりの姿

2010年1月にNHKで放送された「無縁社会」で、とある女性の姿が描かれていました。女性は若い頃母親の介護で苦労されましたが、自ら看護士として働くなか、強く生きてこられました。結婚のご縁に恵まれませんでしたが、生活面ではしっかり貯蓄され、マンションを購入し、生きることに懸命に歩んでこられたのです。
しかし、高齢となった今、共に暮らす人もなく、悩まれた結果自らの末期をNPO法人に託すようになられました。その法人は、本人の死後の法的手続や、葬儀~共同墓地への納骨までを行ってくれるというものです。女性は話します。「死んでから個別の墓に入るのはいや。さびしいから」と。さらに女性は、自宅の冷凍庫に常に3ヶ月分の食料を備蓄して生活されています。「足を怪我して動けなくなっても大丈夫なように」と。

大変強く、計画的に生きてこられたこの女性に、だらしない私は頭が下がるばかりなのですが、逆にこの方の悲しい「こだわり」が私にはどうしても見えてきます。

ひとつには、「足を怪我して動けなくなっても大丈夫なようにしておくんだ」というこだわり。
ひとつには、「死んでから個人の墓に入るのはいや。さびしいから」というこだわりです。
このいずれも共通するのは「他人の世話にならず、自分の力で選び取ってゆきたい・そうしてきた・これからもそうだ」という「こだわり」です。

■すえとおらない「こだわり」

実際に足を負傷すればかならず誰かの世話にならねばなりません。世話になりたくないと3ヶ月分の食料備蓄には頭が下がりますが、結局誰かに病院に連れて行ってもらわねばなりませんし、治療も必要でしょう。
通院するのなら、毎度救急車のはずがありません(そういう困った人もいると聞きますが)。かといってタクシーばかりも不経済です。そうすれば、誰かの自家用車に、自分で動ければバスに乗ることになります。そこでは乗せてもらったり、席をゆずってもらったり、思わぬところで手を差し伸べられたり、自力の限界は考え出せばきりがありません。

忘れてはいけないことは、人間が生きている以上、必ずどこかで誰かの世話になるのです。関わりたくなくても、関わっているのです。その真実から目を逸らしているように見えます。

死んだ後のことまで心配なさるのも私は首を傾げたくなります。個人の墓にせよ共同墓地にせよ、そこに「死後、私がある・いる」という保障はありません。お骨は「かつてこの世に私が存在した証」ではあるでしょう。しかし死後、私と思っている存在がどこへいくのか、どうなってゆくのかという問題については、生者の誰しも、具体的には知らないことです。

死は生を分かつ厳粛な事実です。死んで帰ってきた人はいないのですから、死んだ先を知り得ようはずがありません。知っているとまことしやかにおっしゃる坊さんがいますが、私はそんな嘘つきにはなれません。よく死からの生還に例えられるニアデスは「近似死」体験です。帰ってこないのが「死」なのです。そこを「生の延長の場所」のように捉える姿は、死という真実から目を逸らし続けているようにしか思えないのです。

いずれにせよ、「人間のこだわり」は真実から目を逸らすようにはたらきます。
それは「人間には限界がある、その限界を超越して私を支える力=他力」の否定です。
そういう人間の歩みが人間をよりいっそう迷わせ、苦しませるのです。女性は力いっぱい生きておられるようで、その背中には常に大きな不安を抱えておられます。その原因は、女性の中にあるのですが。

■人間本来の姿に見る「救い」

しかし、この女性にも私は「救い」を見ました。

それは女性が番組内で共同墓地に何度も「手を合わして」居られた姿です。

数珠も持たず、自らの行く先をも全て自分でできると信じて疑わない女性ですが、自らが入り行くと予定する墓地に「手を合わして」おられたのです。たかが合掌と思われるかもしれませんが、「こだわり」にまみれた人間が手を合わす、その根元的なはたらきを思うとき、やはり本願他力は誰の上にでも働き続けてくれているのだと感ぜずにおれません。

本人の意図や自覚はこの「合掌」という行為の前には大した問題ではありません。むしろ、その合掌という姿があらわれたということが大切な証なのです。

「私の力で誰の世話にもならずに生きてゆく。」この女性のこだわりは、人間の知恵の延長に過ぎません。しかし、女性の「手を合わせる」行為には、そんな彼女にも、ひいてはその姿を見るこのわたしにも、仏の智慧(本願)は照らし届いていてくださると感じられるのです。

■みっつのもとどり

今回の法話に、1:利害損得と2:名誉心とありましたが、もうひとつあります。それは「他人に勝ちたい(負けたくない)」心です。法話の中では「内心には自分の見栄や虚栄に繋がれ、心底の満足と安心はない」とありました。これら3つをあわせて、「3つの髻」(もとどり)といいます。

髻とは髪の毛を束ねた「たぶさ」のことですが、人間には3つの目に見えない髻があるというのです。それは「名聞(みょうもん)」「利養(りよう)」「勝他(しょうた)」です。名聞は名誉心、利養は利害損得、勝他は「他人に勝ちたい(負けたくない)」心です。これらは人間のこだわりにつながってゆきます。こだわりは自分だけを守るようにはたらき、他者に向けられることはありません。それが「自力」なのです。

自力は人間の知恵をどこまでも延長してゆく姿です。自らにこだわるあまり、すでに他力(=仏の智慧に支えられてあるすがた)を忘れます。そのことを親鸞聖人は「仏智疑惑の罪」とおっしゃいます。「人間の一生懸命」は紙一重で「仏の智慧を疑い続ける罪」に堕してしまう可能性があるのです。その姿を親鸞聖人は自らの身に、そして私たちの身にあてて、悲しまれるのです。

誤解のないようにもう一度。一生懸命がいけないというのではありません。人間の一生懸命には、背後にかならずおごり・たかぶりの罠がへばりついていますよ、といいたいのです。

さしずめ今回の法話であるなら、男性の「死ぬ時のこだわり」です。どこまでも綺麗に、飾ってやまないその悩みともいえない悩みの姿です。何一つ不満が無いという孤独にこの男性は生きておられます。満足な妻も孫も、いつ何時、その男性の人生を脅かさない保証がありましょうか。そのことに男性は80を過ぎて気づかれたようですね。「私の事実」を仏法に知らされ、謙虚に目覚めるとき、はじめて「こだわり」から解放(解脱)されるのだと思います。

最後に鴨長明のこの詩をご紹介します。
「そりたきは 心の中の乱れ髪 つむりの髪はとにもかくにも」
見た目に立派に剃髪しても、心の中の髻はなかなか剃れないなあというのです。まさに人間の「知恵」の罪悪感を表白していると思いませんか。私たち現代人、見た目には体裁よく整えて生活していても、その本質は仏智を疑惑しつづけ、罪を犯しつづけているのです。
しかし、さきほどの女性の合掌のように、それと気づかされることで「こだわり」から解放され、まことの「解脱」をいただける歩みが始まるのだと思います。/end

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2017年5月のことば

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天命に安んじて
人事を尽くす
〜清沢満之〜

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