第5回 説明は説迷である(2014年大推協通信寄稿)

第5回 説明は説迷である

大推協通信82号

大推協通信82号

※この原稿は、2014年2月24日発行の「大阪教区同朋の会推進員連絡協議会(大推協)通信」82号第1面に寄稿させていただいた文面をそのまま掲載いたしました。

「説明は説迷である」

大阪教区駐在教導 竹中慈祥

以前、テレビの特集で、老後の設計は大丈夫だという独居老人を見ました。いずれ衰えゆくご本人の身の上を綿密に想定され、各種団体と入院・葬儀から納骨に至るまで契約を済ませたことを、あれこれと誇らしげに説明し、「誰の世話にもならない。これで大丈夫だ」と胸を張っておられました。一見頼もしい姿とも見えますが、現代人の孤独と苦しみはそこにあるのかもしれません。


私たちはともすると、「私」という理想像が強すぎるあまり、他人に甘えることを拒絶します。自ら力み、いかに自分が正しいかを主張することで、互いにぎくしゃくし、孤独と苦しみを生んでいるということに気づけません。その一つの表れとして、私たちは自らの正当性を説明することが大好きです。自分の正しさをどうやって他人に伝えるか。よく考えると一日の大半はそのようにして過ごしているのではないでしょうか。


先般、ある聞法会で思わぬ行き違いを経験しました。聞法とはかくあるべきという議論だったのですが、私の発言について反論を受けたのです。その時私はとっさに、「自分がどれほど正しいことを言っているか」を必死で説明しましたが、それは自分の意見が正しいと言うことを主張したいばかりに、むやみに言葉を重ねていただけでした。


高光大船師の言葉に次のような言葉があります。「説明は説迷である」と。

社会でも夫婦間でも、また親子間においても、私たちは常々、自分がいかに正しいかということを言葉でもって相手にわからせようとします。そして、そうすることで相手が私を理解してくれると信じています。しかしどうでしょう。お互いの真実とやらはお互いの中に、各別にしか存在しないのです。それをいくら言葉に翻訳しても、決して双方の溝は埋まることなく、むしろ溝は深まるだけなのかもしれません。説いて明るくなるどころか、説くことで迷いゆくのです。互いの主張する「真実」とは、互いの都合によって作り上げれたまやかしの真実でありました。宗祖親鸞聖人は人間の中に真実はないとも仰います。あるのは「仮」と「偽」ばかりでないかと。その事実に気づくには、私を超えたもの、すなわち仏法に依らねばなりません。


冒頭のご老人は自ら未来を想定し、それを真実としがみついて生きておられます。原発事故で想定という言葉がどれほど空虚だったかということも忘れて。それが人間の智恵の限界でありましょう。そしてあのご老人こそが私の今の姿であり、仏の智慧に値遇う(もうあう)ことを望まれている姿でもありました。

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