第6回 ふたつのいのち(2014年大推協通信寄稿2)

第6回 ふたつのいのち

大推協通信83号

大推協通信83号

※この原稿は、2014年11月21日発行の「大阪教区同朋の会推進員連絡協議会(大推協)通信」83号第1面に寄稿させていただいた文面をそのまま掲載いたしました。

「ふたつのいのち」

大阪教区駐在教導 竹中慈祥

「いのち」と聞いてどんな字を思い浮かべますか?普通は「命」という字ではないでしょうか。もう一文字あるのですと申し上げると、大抵、怪訝な顔をされます。中には「生」ですか?と答えてくださる方もあります。それも間違いではないかもしれません。

しかしここで申したいのはその字ではありません。もうひとつの文字とは「寿」です。かつてある先生からこのことを教えていただいたのですが、難波別院発行の「世界は呼んでいる」という本の中でも、信國淳先生がこのことに触れておられました。

先生はその本の中で「寿命」という言葉から、多くの国で「命」に対する言葉はあるけれども、「寿」に対する言葉がないということに気づいたと仰います。つまり命は英語ならlife、フランス語ならvie、ドイツ語はlebenだけれども、寿に相応する表現がない、と。

では「寿」とは何でしょう。結論から申し上げれば、それは人間の能力では「はかりしれない」いのち、無量寿です。無量とは単に量が無いというだけではなく、量ということに“なみする”のだと教えて頂いたことがあります。“なみする”とは、そもそも関わりをもたないということです。まさに故竹中智秀先生が表現された「えらばず、きらわず、みすてず」のいのちであるわけです。無量寿の原語はa-mita=阿弥陀です。無量光とも表されます。つまり「寿」とは阿弥陀のいのちなのです。

それでは「命」とは何でしょう。根本的ないのちである「寿」に対し、意識の側で作り上げたいのちの像、自ら所有していると思う概念のいのちです。

私たちは絶望というかたちで自らを見棄ててしまうことがあります。それは概念のいのちだから捨てたりすることができるのだともいえます。哲学の世界では絶望は死に至る病だとも表現されることもありますが、つまり「阿弥陀のいのちに反した生き方」です。それは他者を量っては切り捨て、挙げ句の果てに自らをも追い込み苦しみ、絶望の根本である迷いにすらきづけない姿です。

御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、いろいろ物議を醸したことがありましたね。あの言葉は「どれほど絶望しても、今まさに寿からあなた(命)は願われている」という呼びかけだと私は感じます。現代人があの言葉に違和感を覚えるのは、まさに「ふたつのいのち」を忘れ、本願を忘れて生きているからなのかもしれません。/end

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2017年5月のことば

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天命に安んじて
人事を尽くす
〜清沢満之〜

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